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2011.07.14

亡くなって百日目のおつとめ

7月に入りまして、教区(お寺となり組)内のお盆法要が続いています。
来週行われるお寺さんからは、去る4月に亡くなった、そこの先代ご住職の百ヶ日法要も、あわせて勤めるとのご案内も頂きました。
百ヶ日とは、亡くなって百日目に行われるおつとめのことで、「卒哭忌(そっこくき)」という言い方もします。
「哭」を「卒」する、、泣くのを終える、、という言い換えができるでしょう。亡くなって百日。そろそろ涙ともおさらばしようか、、という思いが込められているわけですね。


いつ涙とおさらばできるか・・それを単純にみんな百日目と決めてかかるわけにはいきませんが、ひとつの区切りとは言えるでしょうか。ちょっと専門用語でいうと、通過儀礼ってヤツです。仏教で葬儀をして、その後、初七日やら四十九日やら、ちょこちょこ続く。それは死者を悼み、その冥福を祈る一連の通過儀礼であります。
人間は機械ではありませんので、スイッチひとつで気持ちの切り替えはできませんし、誰にでも通用するやり方もありません。ですがこういう儀礼には、悲しみに沈む気持ちを癒す働きがあるからこそ、古くから言い伝えられ、続いてきたのでしょう。
 
ところで以前、こういう「亡くなってからの儀礼」の流れが、「子どもが産まれてからの儀礼」にとてもよく似ている、と習ったことがあります。
このあたりのことは地域差も大きいと思われますが、ざっと見たところ、たしかに共通するところが多いと思います。
たとえば、産まれてから7日目が「お七夜」といって、ここで命名が行われてきたそうです。
30日目前後が「お宮参り」。100日目が「お食い初め」。誕生日を祝うのはもちろん、「七五三」というとくべつな年齢もありますし、京都では「十三参り」という風習もあります。それぞれが初七日や初月忌、百ヶ日やその後の年回法事に当てはまるのかな、、と考えられます。
 
こういう儀礼からは、この世に産まれ出でてはいるものの、よたよたと危なっかしくつたない歩みの我が子を見守り、成長に喜ぶ姿が見てとれます。
さらにいうと、「育児は育自」の言葉のとおり、子どもといっしょに、親も経験を重ねていくわけですよね。
出産も死別も、人生の一大事件であります。出産でいうなら、「育自」という考え方は、そこを契機として、自らの人生をさらにより良いものにしたい、という望みがあるのだと思います。
そして、大切な人との別れをムダにしたくないと願うことにおいて、「亡くなってからの儀礼」も同じ意味を持つものなのだろうと思うわけです。亡き人といっしょに、残された人たちも経験や思いを重ねていくわけですね。
だからこそ、死者を悼み、その冥福を祈るとともに、悲しみに沈む気持ちを癒し、またがんばろうという力を起こさせる働きがあるのでしょう。
 
子どもはときに早く、ときにゆっくりと大きくなっていきます。
亡くなった人とのお別れも、ときに早く、ときにゆっくりとゆっくりと進みます。
そしてどちらにも、節目節目で振り返り感謝して、また今日を過ごそうとする姿勢があるわけです。

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