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2011.12.08

「真理」について

なんとも「宗教」なタイトルでありますね・・。いえ、オウム真理教についてではありません・・。
お釈迦さまがおさとりになった日にちなみ、ちょっと仏教専門的な記事で恐縮なのですが、自分の備忘を兼ねて書いてみました。
一般の方が、「宗教とは、信じるものである」と聞いたとき、とくに違和感を持たれないと思います。「仏教」に置き換えても、いっしょではないでしょうか。
しかしながら、少し仏教を勉強された方なら、仏教とは「仏の教え」であるとともに、「仏になる教え」でもあると耳にされているかも知れません。さらに専門用語で言うと、智慧(真理を見通すこと)をもって、無常や縁起(あらゆるものは条件によって変わり続け、永遠不変の実体を持たない)という真理であることを認識する、、のが仏になること、、でしょうか。
また、「宗教(もしくは仏教)は、慈悲を実践するものである」と言われて、なるほどそれはそうだよな、、と、ほとんどの方はお感じになると思います。
ただ、私自身、その智慧によって仏になることと、そこから慈悲の実践がなされることが、じつはどうしても直接的に結びつかなくて、、自分自身をおかしいなぁ、、と思っておりました。
そんなときに、このブログの文章を目にする機会があって、なるほどそうか! と、目から鱗が落ちた思いをいたしました。(このブログ主は南直哉師といって曹洞宗の方です。本や対談ものがいっぱい出てるので、わりと知られた人かと思います)
そこには、「真理は認識ではなく、信仰です」と書かれております。
そこで私は、なるほど、無常や縁起という真理を智慧で観るというのは、それはすでに認識を超えて信仰の域に入っているのだな、、と、つまり、信仰だから、言い換えるなら、信念だから慈悲の行いを日々できるのだな、、というように思い至ったのであります。
さらに読み進めると、「真理」はそう信じ、そう主張する者、すなわち「信仰」する者にとってしか「真理」たりえず、真理を「認識」していけば、しばしば、自らに反する意見や主張を徹底的に排除することがある、、とも書かれています。
以前、カルト問題に触れた本(『カルトか宗教か』竹下節子-文春新書)を読んだとき、「カルトかどうか判断するのは、教義そのものではなく、教団のあり方である」という文がありました。
「真理は信仰である」というとき、この文がまさにすっと通り、真理そのものが問われるのではなく、その真理を信仰する信仰者としてのあり方が問われるのだ、、と思うようになりました。
まあ私は坊さんで、お釈迦さまの説かれた真理を信仰しているのは間違いないわけなので、やっぱり周りに信仰者として見られていかなけりゃ、さび付いてしまうのかな、、と肝に(ほんのすこしだけ)銘じた今日でありました。

Comment & Trackback

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> 管理人様
当方でも、この「真理問題」を中心課題として取り扱ってきて、早7年。恐山老師の仰ることも、その通りであると思います。日本では、「信仰」「信仰者」というのが、どうにも敬遠されてしまい、別の言葉で置き換えたり、意図して使わなかったりということがありますが、事実としては、我々は物事を見ていくその最も基本となる「世界観」の段階で、重大な「選択」を行ってしまっており、それを「信仰」というのだと思うわけです。

tenjin95さんふたたびありがとうございます
なるほど「選択」というからには、ひとつを選んでひとつを捨てる覚悟がいるわけですから、そこに信念というか、「信仰」が立つわけなのでしょうね。
私も40を超えて、やっとそういう話しがすっと入ってくるようになった気がします(笑)
言い訳すると、こういうことにも時節因縁があるということで。。