Home > 仏教のこと Archive

仏教のこと Archive

また禅とジャズと・・

先日、坂本龍一が進行を務める音楽番組「スコラ」の集中再放送があって、今度はちゃんと録画してざーっと見ました。

その中ではえーと、、ジャズ編が圧倒的に楽しくておもしろかった(笑)
黒人音楽と白人音楽がアメリカで融合してできたジャズ。そのなんたるかを語るとき、坂本がゲストの山下洋輔のプレイを、「左手がヨーロッパ音楽で右手がアフリカ音楽」と評したたとえがなんとも魅力的でありました。

ジャズ演奏のポイントのひとつに、「コール・アンド・レスポンス」というものがあるそうです。ソロとバックで、ひとつのフレーズを掛け合いしていくものです。楽器によるシュプレヒコールみたいなものでしょうね。
で、バックがきちんと基本をキープしていれば、ソロイストは安心してソロしまくれる、、という構造となっているようです。

 
ジャズの即興と、じつは禅の問答とを絡ませるのがけっこう好みで、、今までに何度かネタにしておりましたが、この番組を見て、やっぱりそう思いました(笑)
どちらも生身の人間が、自分の信念を携えてぶつかり合う姿と言えますね。

駒澤大の石井清純教授の著書『禅問答入門』には

禅問答は、同じ質問に対しても、時と場所、人が違えば答えも変わってきます。

とか

このような個性溢れるパフォーマンスの「本意」を読みとっていくことが、禅問答解釈の醍醐味となります。

と記されています。一度きりの真剣なやりとりが、目にし耳にする者の心を動かし、そこから自分は何を得ていけるんだろう、、と試行錯誤させるのでしょうね。

4047034630禅問答入門 (角川選書)
石井 清純
角川学芸出版 2010-05-25

by G-Tools

「心頭を滅却すれば

・・火も自ら涼し」などという、なんとも勇ましい言葉が禅には伝わりますが、もちろん、悟りを開けば火炎すら熱くなくなる超能力を得る、、ということではありません。
たとえば寒暑などは人間の力でどうなるものでもなく、私たちはそういう状況に置かれたら置かれたで、何ができるか探りながら一所懸命に生きるしかない、、ことを教えていると言えるでしょうね。

先日見たNHKの番組で、地球の一生を120億年と仮定して、それを12時間に置き換えたら、現在はちょうど4時半くらいだと言ってました。
そして、今いるような複雑な生物が生きられる時間は4時から5時のあいだの1時間。その中でも、人間が生きていられる時間とはなんと、1000分の1秒しかないのだそうです。

ああ、ベタな感慨なんだけど、なんと人間のちっぽけなことか。
えーい、喝を入れてやるー

警策(きょうさく)を入れているのはワタシ。入れられているのはムスコ1号です。

お盆佳境に2010

さてさてタイトル通りであります。
それにちなみまして、旧ブログにアップしていた記事の再掲載でありますが・・

その起源は中国撰述の経典『仏説盂蘭盆経』に由来するとも、いやいや古いイラン語で「霊魂」を意味する「ウルヴァン」から来たとも、いやいや日本古来の農業祭であり、食器を運ぶ「お盆」とその語源は一緒だとも、なんともさまざまな顔を見せる「盂蘭盆」であります。
おそらく、上記のすべてが、ある意味正解なのでありましょう。

仏教ではいろいろ理屈も言いますが、「それがあなたにとってどんな意味を持つのか、よくよく参究せよ」という前提があります。
なので、この「お盆」も、迎えるあなたにとってどんな意味を持つのか・・が問われるわけですね。
おそらく、ほとんどの方は、民俗的な日本の行事であり、民族大移動であり、長期休暇である・・といった感じでしょうか。ところが、つい先ほどにたいせつな方を亡くされ、初盆を迎える方々には特別な時間となってくるでしょう。

残念ながら人間は有限であり、「特別な夏」を迎えることを避けては通れないとも言えます。
・・できれば、ずっと遠い未来であってほしいですが・・ね。

 
台風も気になるところではありますが、、今日はお天気も崩れ、その分少しばかり過ごしやすかったでしょうか。どうかみなさまとも、このままぶじにお過ごしいただけますように。

では、その勢いをキープさせるために。。

70年代シンセの音って、多くの場合今聴くとすごい陳腐な場合多いと思うんだけど、この曲は違うよね(って思ってるのは私だけ??)

宗派で違う食事の唱えごと

昨日いただいた「阿じろ」さんの箸袋には、食事前の唱えごとが印刷されてありました。
これは「五観の偈(ごかんのげ)」と言って、禅宗では定番のものです。ふつうの方でも、たとえば大本山永平寺や總持寺の中で食事をなさったら、これをお唱えされる機会があります。

で、これはおそらく臨済宗の唱え方だと思うのですが、じつは曹洞宗と少しばかり違うのですよね。
「五観」ですので、五つの誓いがあるのですが、1と2と4はいっしょ。3と5が違いますね。って言っても、漢文の読み下しの違い程度なもので、意味自体は変わらないと思います。

 
中で興味深いのは3つめの違いです。
写真のものでは
「心を防ぎ、過貪等を離るるを宗とす」(しんのふせぎ、とがとんとうをはなるるをしゅうとす)
ですが、私たち曹洞宗では
「心を防ぎ、過を離るることは貪等を宗とす」(しんのふせぎ、とがをはなるることはとんとうをしゅうとす)
と読んでいます。

意味としてはどちらも、食事をするときには、邪な心や誤った行いを離れるために、貪りの心を起こさないようにしなければならない、、といったところでしょうか。
そこからすると、曹洞宗の読み方より、臨済宗の読み方のほうが、意味として通りやすいような気も。

 
いやいや、私ちゃんと判ってないだけかもしれませんが(笑)
こういう微妙な宗派の違いってホントおもしろいな、、と思ったできごとでした。

ちなみにこの「五観の偈」 曹洞宗だと道元禅師の著である『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』という食事作法の書物にあるのですが、臨済宗だとどうなのかな。もっと言うと、それ以前のオリジナルがあるのかな。。

お釈迦さまも裸で生まれた

今日は妻子と4人で兼務寺へ。月遅れの花まつりでございました。
総代さんや世話方さんが花御堂をしつらえお待ちのところに、法衣を来た小坊主2人といっしょに座っておつとめをしてきたのでございます。やっぱり、私1人のときとは、檀家さん方の食いつきが違うのでございます。

 
さて、お釈迦さまはお生まれになったあと、「天上天下唯我独尊」とおっしゃられたと伝わっています。
お釈迦さまの尊さを賛嘆する意味もあり、また、私たちひとりひとりの持つ尊さについて述べられたのだ、、とも解釈されるようです。

花御堂におまつりされるお釈迦さまは、裸のお姿です。
おぎゃーと生まれてこの世に出てくるときは、お釈迦さまだって、一国の首相だって、どんな人だって裸の姿です。
人として生まれることに、ここでは違いがありません。裸のお釈迦さまが、この言葉をおっしゃるところに意味があるのでしょうね。

 
そして長じて、私たちはいろいろな縁を結び、親子や友人や夫婦や近所や仕事関係など、さまざまな顔や肩書きを持って生活していきます。
そんなとき、他に何もかもない裸の自分を思い出してしまうと、不安に駆られることがあるかも知れません。

しかしながら、尊いはずの裸の自分を思い出して、かえって不安に駆られてしまうのは、これも不幸なことでしょう。
では、そのさまざまな顔や肩書きが、裸の尊さをおとしめてきたのでしょうか。もちろんそんなことはありません。

 
親子のあいだで、こういうことを教えられ育ててもらった。

友だちの関係の中で、あの助言があったから、今の自分がある。

同僚の関係の中で、こんな自分の悪いところを指摘してもらった。

 
こんなことがあって、私たちは生きていきます。
裸の自分の不安を和らげてくれるのは、さまざまな顔と肩書きを持つ自分の、周りにあるいろいろな縁しかないからです。

降誕会2010

今日はお釈迦さまがお生まれになった日。花まつりでございます。

お母さまのマーヤー夫人が、実家で出産すべく帰路に就かれている途中で産気づかれたと伝わっています。
写真はその遺跡。ルンビニーといいます。池は、お釈迦さまが産湯を使われた水と言われています。

私もルンビニーにおまいりして、もう13年経ちます。緑の大木が印象的でした。

 
スティーヴン・キングの(笑)中編『図書館警察』には、誠実さと信念が恐怖に対抗しうるのだ、との文章が。ちょっと我田引水ですが、仏教的に読めますね。
仏さまをたたえるのに、「施無畏者(せむいしゃ)」という名前があります。恐怖をとりのぞくものという意味です。お釈迦さまも、誠実と信念の人であったことは、残された経典からかんたんに想像できます。

 

大きな地図で見る

 
今日は町内でまつられているお釈迦さまのところへおまいりに行きました。
きれいなお花いっぱい飾られて、誕生仏は立っておられました。その前で、町内の人に見守られながらおつとめさせてもらって、感激して帰ってきました。

自死遺族にどう向き合うのか

くも膜下出血と診断され、その容態が心配されていたジャイアンツの木村拓也コーチが、今朝お亡くなりになったようです。謹んでお悔やみを申し上げます。

 
こういう若さで亡くなること、多くは病気であったり事故であったり、あるいは自死であったりと、ご遺族にとっては中々受け入れがたいことでしょう。

asahi.comの記事で、僧侶として自死遺族にどう向き合うべきか、、というものがあり、とても興味深く読みました。

仏教は自死をどう捉えているのか。
坊さんたちもきっと、いろいろ悩みながら対応されているのだろうと思います。

記事では、浄土真宗本願寺派の教学伝道研究センターの研究を紹介しています。
「問題にすべきは自殺を生み出す「要因」であり、引き起こされる「結果」ではない」こと。
「相談者に対して不殺生の教えから『死んではいけない』と否定してしまうのと、『死んでほしくない』と寄り添うのは似て非なる」こと。

いずれも非常に説得力がある発言ですね。私もまさに、その通りに接していこうと思うこと、あらためて認識しました。

地下鉄サリン事件から15年

おまいりに行くのに今日は電車を使ってまして、席に座って外を眺めていたら、ハッと気づいてしまいました。

3月20日は地下鉄サリン事件のあった日であることを。

今、乗っているこの場で、こういう状況になったらと思うと、かなりの恐怖を感じました。

 
あらためて事件で亡くなった方のご冥福を、被害に遭われた方へのお見舞いを申し上げますとともに、こういった事件が未然に防ぐことのできる社会であって欲しいと切に願うものです。

 
端的に申し上げて、「最終解脱者」とか、それに類したような自称をする宗教者を信じてはいけません。
ただ問題は、そういう言い回しを耳にするまでに、たくみな籠絡方法をカルトは持っているということです。

春彼岸初日です

春の襖絵が出ました。奈良県吉野の桜だそうです。

 
さてさて、雨交じりの一日でした。今日からは、ほかのお寺さんへの法要手伝いが続いていきます。

18日は観音さまの縁日ですね。観音さまは「施無畏(せむい)者」という別名を持っておられます。「畏(おそ)れ無きを施す者」という仏さま。そのお姿やお力を念ずることにより、畏れという苦悩のない日々を送ることができるという信仰ですね。

このお彼岸をご縁として、畏れなく安らぎに満ちて生きるためのきっかけをつかんで頂けますように。。

涅槃会にて

お釈迦さまが亡くなった日、日本では2月15日がそれにあたります。そして、兼務寺の方では月遅れでおこなわれ、日曜日の今日行ってきたのでございます。

昨日から総代さんが、畳1畳より大きい涅槃図を掛けたり、お供えを並べたりして準備をしていただいてました。私は今朝から。小雨で寒い中、在所の檀家さん方が集まられます。

 
お釈迦さまは、およそ2500年ほど前に生きられた実在の人物です。
おもに活躍された場所はインド東北部。お釈迦さまを中心に、大勢のお弟子たちや信者たちが集まってこられていたのではと想像されます。

時代は下って、いまはお釈迦さまのナマの声を聞くことはかないません。しかし、そのお姿はご本尊として、お声はさまざまな経典として残されています。
それは、生きていく上において、いかにして安らぎを持って、ほんとうの意味で満ち足りた人生を送ることができるのか、、一生かけて伝えて行かれるお釈迦さまのお姿です。
それは高貴に見えるでしょうか。手の届かない境地に思えるでしょうか。

いえいえ、それをきちんと見せてくれた人が、あなたにもいるのではないでしょうか。
すでに亡くなっているご家族や、縁ある方々の生きざまをご覧になって、感じ入ったことがあるのではないでしょうか。

それは、じつはちゃーんとあなたに受け継がれているのです。

そしてまた、あなたも、生きざまを見せる人間となっていくのです。

お父さんが光って見える

ずっと毎週宝塚までお逮夜にお伺いしておりまして。
先週、故人の奥さまから、お子さん(小2)が最近さびしがってしょうがない、、とのお話を聞いていました。

小2というと、、人の死を理解できるか、できないか、、とても微妙な年代でしょうか。いずれにしてもショックであることは間違いないですよね。
一般論として、「自分が悪い子だったからお父さんが死んでしまった」と自責の念を持ったり、「こんどはお母さんが死んじゃうんじゃないか」という不安感を強く持ったり、、ということを聞いたりします。
もちろんそんなことはないよ、、と慰めるわけですが、悲しい感情をどう表現していいのかわからないのだとも耳にします。ああ、でもこれって、大人でも一緒ですよね。
だから、お母さんも子どもの前で無理をせず、「お母さんだって悲しい」と伝えた方がい場合もあるのでしょうね。

 
さてさて今日、「お子さんその後どうですか~?」と聞いてみましたら、「なんかねー、何日か前、横断歩道を渡ろうとしたら向こうに光ってるものが見えて、それがお父さんだったって言うんですよ」と。
「顔は見えないけどお父さんだってわかるって。それで、渡り終えたら見えなくなった」とも。
おおー、これはなんとも興味深いお話ですね。

これをオカルト的に見ちゃって、逆に「そんなの幻覚に近いものだよ」と言っちゃうのはかんたんですね。
でもまあ、坊さんとしてはここは、この体験がその子にとって、またはお母さんやご家族にとってどういう意味を持っているのかを見る必要があるわけですね。

「お父さんと仲良かったんですね」と言ってみると、奥さまなんだか照れた感じで、「なんかニコニコして言ってましたよ」とお答えになります。ああ、彼なりに葛藤しながら生きているんだろうな、、と想像してしまったエピソードでした。

悲しみは本当に時が解決するか

100218_1118~010001.jpg

ちょうどこの近くまで、お逮夜でおまいりしてます。。
故人は37歳の男性。お宅ではご両親、奥さま、お祖母さん、妹さんが待っていてくださいます。

おつとめの後、お父さまと奥さまと、ちょっと話し込んでいました。そこのお父さまは、ご自身の感情の揺れを、じつに的確に言葉にして表現されるのです。(ちなみに、それは私がいちばん苦手とするところで、こういう人を前にすると舌を巻いてしまいます)

その中で、「これ(悲しみ)も時間が解決することなのでしょうね・・」とおっしゃるのですね。こういう場で、悲嘆の中にいる人が言う場合、私はそのままに受け止めます。ご遺族が日々を過ごす励みにされることもあるでしょう。
ただこれは、周囲のものが使う慰めの言葉としては、不適切だという指摘もあります。

おそらく、「悲しみは時が解決する」ことが、「解決される前」ではわからないからかと思います。

何度も波を体験して、時間がずーっと経って、やっとやっと、たとえば「ああ、私はまだ生きていて、あなたのおかげで、これからも生きていくんだ」といったように思えるようになるときが来て、「ああ、悲しみって、時が解決してくれるんだな」と思えるのかな。

時が至らぬときは、そう思いたくても、思おうと出来ないということもあるかな。

かなりの状況差とか個人差がありそうですね。でも、いつかみんな、そこにたどり着けるものなのだろう、、とも思います。

涅槃会2010

インド東北部にはお釈迦さまにかかわる遺跡がたくさんあります。写真はクシナガラという村にある涅槃(ねはん)堂。ここでお釈迦さまがお亡くなりになった、、という聖地です。
私がおまいりしたのはちょうど13年前。今も変わらずこんな感じなのかなあ。

お釈迦さまはそのご遺言で、「常に変わり続けるこの世界の中で、怠ることなく精進し修行を完成させなさい」と説かれました。私たちは、いつまでも生きられると思って生活していますが、じつは残念ながら、そうではないようです。
ただ、だからこそ精いっぱい生きようと思えることもたしかです。無限に生きられたら、たとえば充実を感じて生きることはないかも知れません。

 
では、私たちが有限であること・・それは幸せなのでしょうか、不幸なのでしょうか。

 
たぶんお釈迦さまは、そんなこと考えてるヒマがあったら、もっとほかにすることあるだろ、、と諭されるかな(笑)

今日はそのお釈迦さまのご命日。涅槃会と申します。

 
クシナガラは ↓ ここです。


大きな地図で見る

道元禅師お誕生日

たとえば企業や私立の学校などで、創業者の理念や理想がきちんと継承され、すばらしい業績と高い評価を得ている、、ということがあるでしょう。

そのとき、現在そこで勤務されている人たちは、仕事を通しての収入獲得やスキルアップと同時に、その創業者の理想がその会社内で正しく伝えられ、たしかに達成可能なものであることを証明しているのだ、、という言い方ができるのではと思います。

 
そのリクツは、じつは仏教において言われているものです。
仏教徒は、お釈迦さま以来綿綿と伝わってきたものを受け継ぎます。
それは、代々の和尚さん方がとぎれることなく証明されてきた、「こう生きれば、老いて死にゆく恐怖を克服できる」こと。今度は弟子である自分が、自分の人生をそう生きることによって、それが正しいことを証明していくわけです。

 
そのあたりを、道元禅師は「行持道環(ぎょうじどうかん)」という専門用語で言われました。主著である『正法眼蔵』で説かれているトコロです。
今日はそんな道元禅師のお誕生日。810年前の話しです。

二重洗脳

4492043470二重洗脳―依存症の謎を解く
東洋経済新報社 2009-09-18

by G-Tools

 
どこかで勧められていたこの本、、なんとも扇情的なタイトルですね。これは、ニコチンなどの依存症に苦しんでいる人は、脳が「二重の洗脳」に絡め取られている、、という意味です。

その「二重」とは、、

ひとつは「間違った期待」
ニコチン中毒で言えば、タバコが自分のストレス解消のもとであり、安らぎのもとであると思ってしまうこと。
タバコが解消できるのはその人のストレスではなく、ニコチンへの渇望だけなのです。

もうひとつは「間違った恐怖」
依存によって神経が弱り、ストレス対処能力が落ちていることに気づかず、タバコなしではこのストレスに耐えられずたいへんなことになる、、という恐怖を感じてしまうものです。

もしニコチンがストレス対処能力を向上させることに優れていたら、タバコを吸う人はすべてストレスのない生活を満喫し、吸わない人は不満が溜まりまくっていることになります。もちろん、それが間違いだとみんなわかると思いますが、中毒になっていると、それすら気づかない恐れがあるというわけです。

 
この二重洗脳の罠に引っかかると、そこから逃れようとしても中々難しい。自分がその罠に引っかかっているとわからず、やみくもに努力してしまう傾向があるからだそうです。
そしていちばん怖いのは、依存からの脱却が失敗したとき、どうして自分はダメなんだ、、と落ち込んでしまうことなのですね。

そこをどう乗り越えるかというと、「自分で変えられるもの」と、「自分では変えられないもの」をかしこく見分けることが大事なんだと書かれています。
「変えられないもの」とは、人間の力の及ばないもの。ストレスの原因が、たとえばホルモンの異常だったりする場合、それは自分の力では変えられません。
「変えられるもの」とは、たとえばストレスへの対処方法。ニコチンへの依存から、別の、健康を害さないものへと変えていくことは可能なのです。

 
そして、この「変えられるもの」と「変えられないもの」の区別は、とても仏教的に読めますね。
また、二重洗脳から逃れる方法について、単に心理的なことがらにとどまらず、規則正しい日常を送るたいせつさも説かれています。著者もこの本の中でかなり仏教に言及していますが、身心ともに整えようとする気持ちは、私たちがより良く生きようとするとき、共通するポイントなのかも知れません。

成道会2009

さてさて12月8日は、お釈迦さまがおさとりになった日(成道会-じょうどうえ)として、私たちはたいせつにしております。

 
さとりとは何か!?  という質問への答えは、いろいろな言い方ができると同時に、軽々しく言葉で言うのは許されない、、ものです。

それはなぜかというと、「さとるきっかけ」が人によってさまざまであること。
ある高僧がある言葉を聞いてさとったとしても、おなじ言葉を聞いてみんながさとるわけではありません。

また、「さとり」は一時の発見にとどまらず、一生をかけて「さとり続ける」ものであります。
一生はくり返しのできごとに見えて、じつは一度しかない場面が次々と現れています。

 
では、もしさとったら、私たちはどうなるのでしょうか??  これならいくつも答えが出てきそうです。

 
えー、まず、さとったらトシを取りません、、、スミマセン、嘘です。

えー、そして、さとったら病気にかかりません、、、スミマセン、嘘です。

えー、さらに、さとったら死にません、、、スミマセン、全部嘘です。

 
さとってもトシはとりますし、いつか、その命を終えます。

さとっていなくてもトシはとりますし、いつか、その命を終えます。

じゃあ、その差はどこに出てくるのか。

 
それは、たとえばトシを感じたとき、いよいよ自分の命の終わりを覚悟したとき、私たちの生きる態度にあらわれるのかも知れません。
しかしそのためには、ささいな繰り返しである、日常をたいせつに送らなければなりません。
なぜなら、さとりとは毎日毎日、さとり続けなければならないものだからです。
なぜなら、そうでないと、いざというときに悔いばかりが残る人生になってしまうからです。

 

成道会の今朝、空には半月でした。
できれば心安らぎ、ほんとうの意味で満ち足りた人生を送れますように。。

13日の金曜日

と聞くと「ジェイソンじゃ~ん」なーんて思ってしまう私ですが、キリスト教世界での不吉の象徴として、今では日本でも有名なものとなりましたね。
イエス・キリストの、最後の晩餐に参加した人数が13人であること。また、その後イエスが磔になったのが金曜日であったこと。その2つが相まって、、というのがいちばん有力な理由のようです。

 
ウィキペディアを見ると、欧米では「13日の金曜日に交通事故や医療事故が多くなるのか?」という研究があり、それを否定する報告がなされているようです。

これを、「そんなの当たり前じゃん」と一笑に付すのはかんたんです。しかしそれでも、「13日の金曜日は不吉と信じる者がいて、患者の精神状態が病症に影響を与えることを考慮する」として、きちんと発表するのはやはり意味があると思います。

 
めったにはないですが、うちにも、いわゆる迷信を気にしたり、まわりで不吉なことがおこって不安がる人から相談を受けたりすることがあります。

そういうときは多くの場合、いくつかのポイントが絡み合っていて、それを一つずつ分けて考える必要があります。たとえば、不吉な行動を起こす人が持っている心のひっかかりと、それを見て不安になる人の心の引っかかりは、違う場合が多いからです。
また、その不安を「迷信だから」と切り捨てず、「どうしてこの人は、それを不安に思っているのだろうか」ということを考えてみるのもいいのでしょうね。

でもまあ、それがまた、なかなか答えの見えにくいトコロではあるのですが・・。

比するに前後の歩みの如し

先日の同期会で、物故者法要をつとめたと書いておりましたが、そのとき私たちは「参同契(さんどうかい)」というお経を読みました。8世紀の中国(唐)で活躍された、石頭希遷(せきとうきせん)禅師が書かれたもの。中国産の経典です。
詩の形になっていて、五言を一句とし、それが四十四句。全部で220字という短くて、しかもテンポ良く唱えられるお経なのですね。ただ、法事や葬儀には登場しませんので、一般の方が耳にされる機会はないかなぁ。

 

写真はその「参同契」の一句。このときに購入したお軸です。

 
「明暗おのおの相対(あいたい)して、比するに前後の歩みの如し」と読みます。シンプルな対句の中に、じつは仏教のポイントが隠されている名句だと思います。

「明と暗」は、それぞれ「さとりと迷い」(もっと意訳すると理想と現実か・・)といったものを象徴している、、と言えそうですね。
さとりと迷いは、もちろんまったく違う境地です。ところが、じつは迷いの中からしか、さとりは生まれてきません。

 
これは、仏教が「私たちの生きる世の中」をどう見ているか、、ということにかかっています。

たとえば、私たちは老いから逃れることはできません。これは、さとっていようが迷っていようが変わらないものです。
世の中を「けっして思い通りにならないもの」と見るのが、仏教の大大前提であるからです。(これを専門用語で「苦」と言います)

さとりと迷いの違いは、思い通りにならない不満のまま生きるか、その中でどうやってより良く生きるか、、という選択の差、とも言えると思います。

 
さとっても現実の社会を生きることには変わらず。逆に、現実に迷う社会を生きつづけることからしか、さとりはあらわれてこないわけなのですね・・。 

そのことが、ちょうど私たちが歩いているとき、左右の足はどちらが前でどちらが後ろかの別はなく、ただひたすらに順にくり出されているだけ、、ということに例えられているのでありマス。。

あるがままにLet It Be

EMIミュージック・ジャパンが開催していた、ビートルズのアルバムおよび楽曲の人気ランキングが、リマスター版発売の9月9日にあわせて発表されていました → こちら
それによると、アルバムの1位が『アビー・ロード』で、2位が『ホワイトアルバム』
うーん、非常に納得のいくランキングですね(笑)

 
ところで、楽曲の1位は、なんと『レット・イット・ビー』なんですね!
楽曲を選べ、、というのは難しい設問で、かなり答えはバラけるのではと思うのですが、たとえば『ヘイ・ジュード』とか『イン・マイ・ライフ』とかを押さえての1位獲得。意外な気と、納得するトコロと両方あります。
もちろん私も大好きです。ビートルズを知らない人でも、なんか聞いたことあるな、、くらい言わせるような曲ですよね。

さて、この曲の冒頭は、

続きを読む

曹洞宗両祖忌です

今日は曹洞宗のたいせつな日。両祖と仰ぐ、道元禅師と瑩山(けいざん)禅師のご命日であります。

道元禅師は鎌倉時代初期のひと
曹洞宗を日本に伝え、大本山永平寺をお開きになり、『正法眼蔵』という書物をお書きになった、、

瑩山禅師は鎌倉時代後期のひと
曹洞宗が日本に広まる基礎を築かれ、大本山總持寺をお開きになり、『伝光録』という書物をお書きになった、、

として知られます。いずれも、お釈迦さまの教えを、正しく体得されお伝えになったことに違いはありません。
そのおかげで、私たちも、その時代の中で「いかにすれば、力強く、しかも安らぎに満ちて生きられるか」ということを探すことができます。

どうかみなさまには、それが毎日の、あたりまえの日常にあることがお気づきになれますように。
疑いと不安の中にあるとき、伝わってきたお釈迦さまの教えが、その道を照らす明かりとなりますように。

秋彼岸に入りまして

うちはお中日が法要なので、ぼちぼちその準備などしております。ふだんはしまってある、紅葉のふすま絵も出してきました。
外回りの合間をぬって掃除して、お客さんの対応をして本堂のお飾りもして、、という毎日です。

お彼岸は日本独特の行事と言われています。
大同元年(806)、崇道天皇のために、全国の国分寺の僧に春秋2回、7日の間、金剛般若経を読ませたというのが、そのルーツとされています。
崇道天皇といえば、怨霊話しですね。お彼岸の最初は、荒ぶる霊をなぐさめる意味があったのでしょうか。

また、お彼岸は、太陽が真東から上がり真西に沈む日を中心に7日間あり、太陽信仰も連想させます。そこから、豊穣を祈る気持ちも浮かんできそうです。

今お彼岸は、お盆と並んで先祖祭りの行事となっていますね。
みなみなさまにおかれましては、ご先祖、または近しい故人の前で謙虚な姿勢を得て、生きている感謝と、その恩にむくいる日々でありますように。
その道行きが、仏さまによって照らされて、不安のない人生でありますように。

私たちは変化し続けるもの

政権交代の話題ですっかり影を潜めてしまいましたが、酒井法子被告のニュースもちょこちょこ出てきていますよね。(ご参照 → このあたり

反省し謝罪する手紙を事務所社長に送ったりする反面、供述はまだあいまいなところもあり、「クスリ抜き」や「証拠隠滅」などの疑いも強くなってきています。

 
覚醒剤に手を染めてしまった人間は、たとえクスリと縁が切れても、もうそれ以前の体に戻ることはできないと聞きます。「もう完全に止められた」ではなく、「今日もしなかった、を繰り返す毎日」を目指すしかないのですね。
酒井被告にしても例外ではありません。人間がかんたんに悪に落ち込んでしまう怖さを感じます。

 
ただ、おなじように、今度は善に変わることもできる、、という仏教の発想があります。
 
たとえば、道元禅師の主著である『正法眼蔵』の「発菩提心(ほつぼだいしん)巻」に

おほよそ発心・得道、みな刹那生滅するによるものなり。もし刹那生滅せずは、前刹那の悪さるべからず。前刹那の悪いまださらざれば、後刹那の善いま現生すべからず。

とあります。
仏教では、あらゆるものごとは常に変化し続け、おなじところにとどまることはないという見方をします。「刹那消滅(せつなしょうめつ)」とは、そのあたりを指す仏教語です。
このことは、私たちも「変化し続けるもの」であること、たとえば老いて病に倒れ、最後はその命を終える身であることを言うのに使われます。
ところが逆に、私たちは「変化し続けるもの」であるから、悪が去り善を起こすことができるとも言えるわけです。仏教は宿命論ではありませんので、私たちの心持ちと努力によって、過去を背負いつつ未来を拓いていけると説いています。

 
過去を背負って「前刹那の悪」を去らせ、心持ちと努力によって「後刹那の善いま現生」してくる。
酒井被告の、善が現生するように願うとともに、私自身もこの文をなぞって生きなければならない、、とも思うわけです。いえ、いつもではなく、ごくごくたまにです。

お盆法要ぶじ終了

早朝に住職寺へ。「施食会(せじきえ)」という法要です。
いつも2部制になっていまして、前半はお参りの方みなさんの法要、後半が初盆(初めてのお盆を迎えるホトケさま)の法要なのです。

ところが今年は初盆の方がなく、前半をそれぞれのお宅のご先祖サマ、後半は、おまいりの方々に縁あるすべてのホトケさまに供養する法要に切り替えておこないました。
なので、みなさん前半後半2度のご焼香です。香を焚いて供養する、、という功徳がお釈迦さまを始めとする仏さま方を賛嘆し、それが巡って、自分が念ずるホトケさまの追善になる、、というリクツで、この法要は成り立っています。

みなさん、ご自分のご先祖サマだけでなく、今までの人生で出会ってこられて「あの人に救われた。あの人のおかげで今の自分はある」という人みんなへ思いを馳せていただければ、、と思っております。

 

今年はムスコズも住職寺施食会デビューです。まだまだ、ちゃんとした法衣は身につかず、動きもちゃんと理解できず、うろうろするばかり。これはまぁ場慣れしかないですねー。
それでも檀家さんには喜んでいただけたかな。私が棚経行ったとき、「今年はムスコさんもおつとめしてくれるんでしょ??」って、けっこう聞かれていたので。。

 
さてさて、ぶじに終わって役員さん方と昼食。片付けて3時くらいにお寺を後にしました。
その後、私は洋服に着替え(笑)、京都市内繁華街にある某老舗百貨店へ。所用をすませ、あわせて妻実家にいるイトコズへのお土産を探しに、おもちゃ売り場を闊歩します。
さらにハハと別れた坊主頭3人組は、夕方の四条通を西へ。目的地はムスコズ御用達である某大型書店です。私もリアル本屋で久々に本をいっぱい買っちゃったよ。。
おかげさまで、今年のお盆も実質終わりました・・。

みなさんお盆ですよ~

お盆もヤマ場を迎え、お墓参りに来られる人もぐっと増えました。
お盆は『仏説盂蘭盆(うらぼん)経』というお経もありますように仏教行事でもありますが、その実質はご先祖まつりなのでしょう。
また、農耕儀礼でもあるようです。ナスやキュウリなどの夏野菜や、お素麺なんかをお供えするわけですね。

手を合わせるのもお供えをするのも、その根は感謝の表現でありますよね。私も、ため息つくようなこと多いですけど、とりあえず生きてるだけでも良しとすっか・・。

 
ここ数日は暑い夜ですが、みなさんおやすみになってらっしゃるでしょうか。寝苦しいときは、ブライアン・イーノの『Music For Airports』を。

続きを読む

奈良にて

梅雨が明けたら35度と、律儀な夏です。
棚経3日目にして、もう車の運転も飽きました(笑)

 
さてさて午前中、奈良方面に行ったとき、信号待ちの合間に・・

奈良国立博物館の、寧波(ニンポー)展の案内が。上海に近い、日本仏教には縁の深いところです。
道元禅師が修行された、天童山もそこにあります。ああ、生きているうちに行かなくてはなぁ。

 
ところで、今月末に「旧てらブログ」を閉鎖することにいたしました。旧時代のおりから、皆さまにたいへん良くしていただいたこと、ここであたらめて感謝いたします。

松原泰道師ご遷化

まあ仏教に興味の深い人、または業界人のなかでは、その名を知らない人はいないかも知れませんね。
それほどの大物かと思います。「南無の会」創設者で、数多くのわかりやすい仏教書を著してこられた、臨済宗の松原泰道師がご遷化されました。101歳というご高齢でした。(ご参照 → このあたり

 
近所のご老僧で、曹洞宗の師家(しけ-指導役の僧侶)の方がおられるのですが、よく「曹洞宗は教化集団たれと言われるが、それは間違いだ。曹洞宗はあくまで求道集団でなければならない」とおっしゃってました。
私はそれを聞いてうなずきつつも、求道であることが教化につながり、教化をすることがそのまま求道であろうし、両者は矛盾するものではないのだろうな、、とも、漠然と思っていました。

松原師は、その両者を高い処で両立された希有な方だったように思います。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

まるさんかくしかく

京都は蒸し蒸しした天気が続いています。蝉の声も聞き始めましたよ・・。

 
さてさて、今日は石原裕次郎の23回忌中継は見ずに、来る8日に行われるお盆法要の準備をずっとしておりました。
椅子や机を並べ替えたり、法要の道具を出してきたり、本堂のお飾りをしたり等々。もちろんガラス拭きもやりました。

玄関の大ガラスに、窓ふきスプレーを吹き付けます。

「○△□」はいつものお約束。
江戸時代末期に博多で活躍した、仙崖義梵(せんがいぎぼん)という臨済宗の和尚さんの手になる書の、マネっこであります。(でも、左右が逆ですね-汗)
オリジナルは東京の出光博物館にあるようで、こちらでご覧いただけます。

続きを読む

臓器移植法改正案が衆議院で可決

1997年に成立した「臓器移植法」が12年ぶりに見直され、一気に進んだ改正案が衆議院を通過しました。詳しくは → たとえばこちら

現行法では、臓器提供者は15歳以上、本人と家族の同意が必要でした。そして、脳死は臓器提供に関わる場合のみ人の死と認めるものでした。
今回の改正案は、臓器提供の年齢制限を撤廃し、本人の拒否がない限り家族の同意で可能になります。そして、脳死は一般的に人の死と見られるようになるようです。
まだ参議院での審議がありますので、これで決定ではありません。参院は、この案に批判的な民主党が多いですからまだわかりませんね。

臓器移植が、ほんとうに人間に幸せをもたらすものなのか、さらに議論が必要だと思います。
ちょっと仏教用語を使ってみますと、移植が「布施行」にあたるとして積極的に認めるのかどうか。
もしくは、移植をして延命しようとするのは、否定されるべき欲望になるのかどうか、、というところでしょうか。

また、脳死もこの機会に議論されてほしいです。
日本人が古来持っている死に対する感覚は、脳死とは相容れない部分が大きいからです。

ただ、脳死を人の死と認める流れは、すでに止めにくいものになっているような気もします。そうなると、ほぼ自動的に臓器移植を認めることになります。
こういうときこそ、どちらに立つにせよ、流れに惑わされない見方を持ちたいものです。

おくりびと

B001Q2HNOWおくりびと [DVD]
本木雅弘, 広末涼子, 余 貴美子, 吉行和子, 滝田洋二郎
アミューズソフトエンタテインメント 2009-03-18

by G-Tools

いやー見ました。やっと見ました。本家アカデミーも含め、昨年の日本では賞を取りまくった映画。
所属していた楽団が解散になり職を失った本木雅弘が、妻の広末涼子といっしょに山形へ帰り、そこで得た職がなんと納棺師だった、、というお話しです。

通して見て、ざっとの感想ですが、、まずなんと言っても山崎努の演技はすごいなと。あと、山田辰夫と笹野高史も、しみじみいい役者さんですよね。。
本木くんも杉本哲太も、それに引きずられてそれぞれの味を出してますね。

続きを読む

応量器が届きました

「坊さんであること」を考えるとき、外見や内面から見ていくやり方もありますが、「坊さんだから、これを持っている」という見方もあります。

曹洞宗では、それは得度のときに師匠から授かる法衣であり、袈裟であり、血脈であります。

そしてもうひとつ。それは「応量器(おうりょうき)」という食器です。

続きを読む

東大寺にて

久々に奈良東大寺まで行っていました。毎年行われている、花まつり千僧法要に随喜しておりましたのです。どうもご無沙汰してました、大仏サマ。お変わりございませんでしたか。
例年よりひと月遅れのこの日、インフルエンザの影響もあって、参加人数は少なめだったでしょうか。それでも100名近くいたのでは。他宗の坊さんたちの威儀を見るのはやはり興味深いです。

ふつう、法要のときには読経の後に「回向(えこう)」といって、読経の功徳をどのように振り向けるか、、についてお唱えをいたします。
これにはいろんなパターンがありますが、今日は「普回向(ふえこう)」というオールマイティなものもお唱えされていました。

「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」
(がんにしくどく ふぎゅうおいっさい がとうよしゅじょう かいぐじょうぶつどう)
願わくはこの功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを、、と和文でも申します。

核実験ニュースで、きな臭い昨今。あまねく一切に及ぼされる功徳によって、平和がもたらされますように祈念もしてきましたよ。

酒は飲んでも・・

草彅くんのニュースはさすがにびっくりしましたね。私は酔って脱ぎはしませんが、泥酔しての失敗はありますので、、やっぱし気をつけねばなぁ、、と思いマス・・。

 
さてさて、たとえば先のムスコズ得度のように、曹洞宗において坊さんになるときは、仏弟子として生きる誓いとして「戒」を受けます。
そこには、お酒に関するものもあります。「不酤酒戒(ふこしゅかい)」といいます。

「酤」を漢和辞典で引くと、「酒を売り買いすること」と出てきます。「飲むな」とまでは言いませんが、それに近いものではありますね。少なくとも、飲酒を奨励するものではなさそうです。

飲酒運転の厳罰化もそうですが、草彅くんニュースでも、お酒の持つ危うさをあらためて思います。
法然上人は「お酒を飲むのは罪になるか」と問われて、「ほんとうは飲むべきではないけれど、この世の習いではある」とお答えになったそう。とりあえずそれを言いわけにして(苦笑)、今夜も「適量の」晩酌頂戴しました。

今は ↓ です。おいしいよ♪

 
※ もしかしたら、「不酤酒戒」の「酤」が表示されない環境の方もおられるかしら。
  「酤」は、「酉ヘンに古」です。

お釈迦さまの、お生まれの日に

生誕の聖地、ルンビニー(ネパール)にまつられる降誕の姿。
右手を大きくあげているのが、母親であるマーヤー夫人。その足下に立っているのがお釈迦さまですね。

 
何度かご紹介したかも知れませんが、お釈迦さまと、ほかの仏さま、たとえば阿弥陀さまや観音さまなどとは、決定的に違う点があります。
それは、お釈迦さまが、今からおよそ2500年ほど前に実在し活躍された方であるということです。

私たちとおなじく生まれ、成長するにつれて悩み、老いて、その命を終えられたお釈迦さま。
ただ、私たち凡人とちがっていたのは、生きている上で避けようのない、思い通りにならないことをどうやって受け止め生きていくかを見つけ、日々実践されておられたということでしょうか。
およばずとも、マネすることを心がけられますように。私たちの毎日が、さらにお釈迦さまの徳を高められるようなものでありますように。そして、ともに歩むみなさんの足もとが、いつも照らされるものでありますように。

トクドしたムスコズ

ついにソメイヨシノも咲き始めたこの日、たくさんのお参りをいただいて、ぶじ得度式は終了しました。今は、、はー、疲労困憊とはこういうことを言うのか、、というほどの調子です(笑)

さて、曹洞宗における得度式は、おおざっぱに言って3つに分かれています。

最初に、髪を断ずる式。
ほんとうは式の中で髪を剃るんですが、時間的に厳しいので事前に髪を刈っておき、式の中では剃刀を当てるしぐさをすることもあります。

次に、正式な僧名や法衣などを受ける式。
受けては五体投地をくり返し、決まった偈文を唱えます。

最後に、戒を受け仏法に生きる誓いを立てる式です。
この3つは切れずに連続しておこなわれ、おおよそ1時間弱で終わります。2人はお拝しては、またお拝。ほとんどの偈文は私が先導するのですが、最後はもう、「ああ、これで終わっちゃうのか、、もっと続いて欲しいなぁ」と思いながら唱えてました。

これでお坊さんの仲間入り、、って言っても、中身は小学生。どんな世界で生きるにしても、胸張って行ってほしいデス。得度という縁を受けたことをバックグラウンドにしてね。

 

戒を受け、三拝をする図です。

きょう彼岸

タイトルは、菩提の種を蒔く日かな、、とつづく句の頭です。松尾芭蕉の作とも聞きますね。
「菩提」を仏教語辞典で引いてみると、「悟りの智慧」と出てきます。お彼岸にあたり、悟りの種を蒔きましょう、、ということになるでしょうか。

「悟りの種」というものは、残念ながらスーパーや種屋さんでは売っていません。また、見えるものでも、触れるものでもありません。そんな種を、いったいどうやって蒔けばいいのでしょうね。。

 
ところで、ふつうの種は蒔かれただけでは芽を出しません。たとえば水や太陽、適度な肥料が必要かと思います。じつは、「悟りの種」もおなじです。

さて、ここを読んでいただいてるみなさんにも、水や太陽や肥料に当たるもの、つまり自分が日々を送るにあたって、育ててくれたり、助けてくれたりするものがありますよね。

それは、ピンチの時にこそ気がつくものかも知れません。

それは、ときに耳に痛いものかも知れません。

そして、それらが自分にとっての水や肥料だと気づいたとき、じつは悟りの種をもらっていたのだ、、と言えるのです。

 
では次は、手にした種を蒔いてみることにしましょうか。これにはコツがあります。今度は、まわりの人たちの、水や肥料になってあげるのです。
「悟りの種」はとなりの畑に蒔くと、自分のところにも芽が出てくる、、というふしぎな特長があります。

証道歌を唱える

8世紀初めのころ、中国(唐)に永嘉玄覚(ようかげんかく)という禅僧がおられ、『証道歌(しょうどうか)』という書物を書かれました。歌、と付くくらいなので、調子のととのった句から成り立っています。
中身は禅の神髄を伝えようとしたもの。「無明の実性即仏性、幻化の空身即法身」とか、「行も亦禅、坐も亦禅」とか、「栴檀林に雑樹なし、欝密深沈として獅子のみ住す」とかとか、禅宗の人なら耳になじみ深いフレーズであふれています。
上っ面をなでただけの感想で恐縮ですが、非常に詩的で、また中国禅らしい威勢の良さみたいなものがとても感じられる経典ですね。

じつはこの『証道歌』、私たちが法要でお唱えすることはほとんどありません。

ところが今日、おなじ教区のお寺で開山忌(初代住職の法事)と先住忌(先代住職の法事)があって伺いましたら、なんと、この『証道歌』をお唱えする機会に恵まれたのです。はっきり言って、私は初めての体験でした。
そのお寺の先代住職がお好きだったようなのですね。これはとても貴重な体験をさせてもらった、、という感想であります。

春の色さまざま

門前の道に並ぶ河津桜も、いよいよ満開を迎えてきました。リアルで見ると、とても鮮烈なピンク色です。

 
さてさて、今日は住職寺での涅槃会。お釈迦さまがお亡くなりになったときのご様子を描いた「涅槃図」を掛けて、みんなでお参りいたします。
いつものことながら、準備はすべて総代さんと世話方さん任せ。私は朝に出かけていくだけです。

こちらでは、米粉で作った4色の小さなお団子をお供えします。これは、青黄赤白黒の5色が本当だと思われますが、黒がないですね。
というのは、仏教、とくに密教あたりでは、この世界を地水火風空の5大要素から成り立っていると考え、そのそれぞれに色を当てはめているからです。つまり、この5色で宇宙のすべてを象徴させてしまおう、、ということかな。
ちなみに、このブログのタイトル部分や、おてらコムのトップでは、黒が橙に変わった組み合わせを入れています。仏教徒の証である仏旗にはこの色が使われていて、私もここをデザインするときに拝借したわけなんです。こちらは、おなじ5色でもちょっと意味あいが違うようですね。
(仏旗や、その色の由来については → こちら

 
住職寺の涅槃図。江戸時代のもののようです。

そのきさらぎの望月のころ

「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」

という歌は、平安末期(源平合戦のころ)に活躍した歌人の西行法師が、お釈迦さまの涅槃になぞらえて詠んだものと知られています。きさらぎの望月とは旧暦の2月15日。新暦では4月初めくらいなのかな? 花とは桜のことですしね。
現代のお寺では、その2月15日(地方によっては月遅れ)という日を涅槃会にあて、その日亡くなったとされるお釈迦さまを、慕う1日としています。

花の下、、というと、伊丹十三監督の『お葬式』も浮かびます。
ラストシーンで主人公役の山崎努が、火葬場で桜吹雪を見て「オレは春に死ぬことに決めたよ」っていう感じのセリフを言ってますね。日本人だからかな、私もその心情はわかる気がします。

 
まあ、自分の死にたい季節を言う人はそんなにおられないかな。私がよく耳にするのは、「まわりに迷惑をかけないで死にたい」という言葉です。
これを美徳と取るのか、はたまた、周囲との断絶を思わせる悲劇と取るのか、それぞれ事情はあることでしょう。
それでも、最近よく聞く「死をタブー視してはいけない」という死生学の主張にとっては、ひとつのとっかかりとなる気持ちかも知れません。

おまいり先で、「和尚さん、できれば子どもに迷惑かけて死にたくないねぇ」とおっしゃる方に、
「ああ、私もそう思いますよ。でも、迷惑かけないで死ぬなんて出来ないですよね(笑)」と返すと、相手も苦笑してしまわれます。

 
かのお釈迦さまだって、死因は食中毒かと伝えられていますが、そういう意味ではかなりお弟子さまたちの手をわずらわせたこともあったのかなぁ、、とも思ってしまいます。手塚治虫の『ブッダ』は、そのあたりうまく表現している気がしますね。

節分に

今年も節分がやってきて、暦の上では明日からいよいよ春であります。
雨模様でしたが、ちゃんと豆まきいたしました。

ところで、地方によっては豆まきのかけ声を、「福は内、鬼も内」とかけるところもあるようですね。関東に多いのかな??

なぜに「鬼も内」なのか私にはわかりませんが、これを仏教的に読み替えることは可能かもしれません。
「鬼」は、おそらく「わざわい」の象徴かと思います。それをわざわざ内へと持ってくるのは、人生において「わざわい」は避け得ないものなのだ、、という姿勢が見えるような気がします。
わざわいを、「苦-思い通りにならないこと」という仏教語にも言い換えられるかな。

そこでじゃあどうするんだ、、というのが仏教であります。
たとえわざわいに遭ったとしても、そこから自分がいまできることはないか、そのわざわいの中にこそ、さらにステップアップするヒントが隠されてないか。どうせ避け得ないわざわいならば、それですら力にしてしまうくらいの度量を持ち合わせたいわけですね。あー難し(苦笑)

禅 ZEN

日本曹洞宗の宗祖、道元禅師を主人公にした映画「禅 ZEN」を見てきました!
見る人を選んじゃうけど、いい作品でした。

 
道元禅師役 中村勘太郎
うーん、所作のキメのいちいちがびしびしっとなってていいなあ。
セリフも一部歌舞伎っぽいし。

おりん役 内田有紀
ますます乗ってきてますねー。綺麗ですね、あらためて見ると(笑)
最後の尼僧さん姿も妙に似合ってます。

北条時頼役 藤原竜也
こういうキレ加減の役が、最近はハマりですね。
惜しむらくは、もうちょっと長く出ていて欲しかったなあ。

続きを読む

今年の漢字は「変」

もう一昨日のニュースになってしまいましたが、日本漢字能力検定協会が公募で選ぶ「今年の漢字」に「変」が選ばれました。清水寺の森清範貫主が揮毫される映像で知られますね。

報道によると、
「株価暴落や円高ドル安など金融情勢の変動や、異物混入に代表される食の安全性に対する意識の変化、日本の首相や米大統領の交代など、政治的な変革などが理由。さらに、ノーベル賞受賞や北京五輪など、日本人の活躍に良い変化があったこともあり、良くも悪くも変化が多い1年で「来年は良い年に変えていきたい」という期待も込められた」とのこと。

オバマ次期米大統領の「Change」はインパクトのあるフレーズでした。この「変」は、みずから意識して、より良き方向を向けるようにするものですね。

続きを読む

欲望を欲望と見られる?

「欲望」と「向上心」の根っこはいっしょだと思いますが、どちらかというと欲望はマイナスに、向上心はプラスに見られますよね。
いったい、その境目はどこなんだろうなぁ、、とも思うのですが、自分のことを省みるとナカナカ心許ないものです。他人の評価にゆだねた方がいいのかなぁ、、とも思ったり。となると、明らかに周囲に悪影響、というか迷惑を及ぼすようなものは、本人がいくら良い向上心だと考えていても、そうは取ってもらえないでしょう。「孤高」と「独善」の境目も、このあたりにあるのかな。

続きを読む

続 欲望を欲望と見られる?

欲望、といえば、嫉妬も大きな欲望の一種でしょう。ないものねだりですからね。

恋愛での感情はもちろん、他人の才能や成功をうらやむのもそうですよね。そういう気持ちは人間にはあたりまえに生まれてきますが、さて、さらに自分を磨くチャンスとするのか、不平で苦しむ落とし穴にするのか、、ここはぜひとも「さとって」いきたいトコロです。

28年前の今日に亡くなったジョン・レノンに、その名もずばり「嫉妬深いワタシ」という意味の歌があります。

続きを読む

続々 欲望を欲望と見られる?

ああ、でも、おいしいものを食べたい欲望には、どうしても勝てませぬ。。

そんな今日、お寺では小豆がゆをいただくのであります。


お釈迦さまのおさとりを慕いお祝いする意味もあって、曹洞宗では12月1日から「摂心(せっしん)」といって集中的に坐禅をする日をもうけています。
永平寺にいたときでの経験では、摂心最終日の7日は夜間も坐禅が続き、日が変わって8日の午前1時に坐禅を解いて、お釈迦さまにおかゆをお供えする法要がありました。
法要終わって、その場でみんな一口ずつのおかゆをお相伴します。五味粥(ごみじゅく)という、味のついたおかゆです。

それに代わり、今日は小豆がゆが炊かれました。


これは応量器(おうりょうき)という禅僧が持つ食器で、私が永平寺で、じっさいに使用していたものです。

プチ修行

4344409868プチ修行 (幻冬舎文庫)
小栗 左多里
幻冬舎 2007-08

by G-Tools

『ダーリンは外国人』でおなじみの漫画家、小栗左多里(おぐりさおり)さんが、何となく「足りてない」と感じる自分を見つめ直し、何ごとにも動じない幸せな人間になりたい・・と思って、いろんな「修行体験」をしてはレポする、という企画の本です。

行かれたのは、(ヴィッパナサー)瞑想、写経、坐禅(臨済も曹洞も)、滝行、断食、四国遍路、、そして(これは修行というより精神療法でしょうか)内観。
みずから信用できそうなところを迷いながら探し、ときに友人と、ときにお一人で、まさに体当たりして感じたことを、忌憚のない意見とともに書かれているのです。ホントに坊さんになるにも、「師を探す」ことの重要さが言われますが、こういう「プチ体験」でも、探すという最初の敷居は高いんだろうな・・と思ってしまいますね。

続きを読む

今日はチーズの日だそうで

『右官史記』という書物によると、およそ1300年ほどのむかし、当時の文武天皇が「蘇」という食べものを作らせたという記録が残っているそうです。
その「蘇」が今のチーズにあたること、また、作らせた時期が今の11月にあたるということから、覚えやすい11月11日を「チーズの日」と決めたようです。

「蘇」は、じつは仏教経典にも出てきます。
『涅槃経』というお経の中で、牛乳から作られる5種類のものが紹介されていて、「蘇」が入っているのです。
とは言っても、お経の中で料理の作り方を書いているわけではありません。その5種の中で最高の味のものを「醍醐」といい、それをおさとりにたとえているのです。
ちなみに「醍醐味」とはそこからきた言葉。また「醍醐」の原語である「パハヤ・サルピス」の「サルピス」と、栄養素の「カルシウム」をくっつけて作られたのが、「カルピス」という商品名なのですよ。

私もチーズは好き。ピザはもちろん、ミートソース系のパスタには、粉チーズをこれでもかとかける方です。
ところがカマンベールやブルーチーズ系はちと苦手。いちばんウェルカムは、スライスチーズだったりいたします。

13歳からの「いのちの授業」

13歳からの「いのちの授業」―ホスピス医が教える、どんな時でも「生きる支え」を見つけるヒント

これはホスピス医が自らの経験と信念をもとに、「生きる支えを見つけるヒント」を、中学生にもわかるようなやさしい話の展開で見せてくれる本です。
健康であれば気にすることのない、自分の人生の終わりを身を切られるように感じる、、それがホスピスの現場なのでしょう。だからこそホスピスから、「生きる支えを見つけるヒント」が見つかりやすいと言えるのかも知れません。


仏教では「人生は苦である」というスタートから、「苦でありながら、楽を得るにはどうすればよいか」を考え実践していきます。
ここでの「苦」は、「楽あれば苦あり」といった相対的なものではなく、人生とは、ズバリ思い通りにならない不条理なものなのだということを指し、その例として、「老い、病い、死」をあげています。

この本では、あくまでお医者さんの目から見た「生きる支えを見つけるヒント」が書かれていますが、その内容はまさに仏教的と言って差し支えなく、上記のような視点が含まれていると思います。
ホスピスには、ガンやエイズの末期において、負担の大きい延命治療より、残り少ない時間をより有意義に過ごしたい意志を持つ人があつまってこられます。そこには、「どうして、こんな苦しみに遭うのが、他人ではなく自分なんだ」という思いがあります。そして、それは仏教で言う「苦」に他なりません。


筆者は「生きる支え」を、3つの柱で例えています。
1つめは時間の柱で、これは、たとえば将来の夢です。
2つめは関係の柱で、たとえば、誰々がいるから生きられる、、という気持ちです。
3つめは自律の柱で、自分がすることの選択を、自分で決められることです。

「苦」から解放されるには、まずはその柱を安定させる。もし1つの柱が折れそうだったら、他の2本を太くすることを意識してカバーする。
これがここで言う「楽を得る」実践というわけですね。私が仏教的だなぁ、、と思うのは、いずれも「苦から学ぼう」という姿勢があることです。「限りがあるからこそ輝ける」という見方かな。


筆者は、「みんないのちは大切だと思っていても、どうして誰かを傷つけることがあるんだろう」と問いかけ、「その人の苦しみがあまりに大きく、誰かを傷つけずにはいられなくなってしまったからではないか」と仮定し、「どんなに苦しくても、誰も傷つけないで生きていく方法」を考える必要がある、と投げかけています。

苦しくても、人を傷つけないで生きられる人、、そんな人になりたいなあ。坊さんが言うとベタですが(笑)、お釈迦さまはそういう人だったんだろうなあ。

心をむしばむ毒

薄紅の秋桜が秋の日のでございます♪


さて、ふたたび中国製の冷凍食品から、今度は殺虫剤が検出されたとして大きなニュースとなりました。これ以上の被害が重ならないよう願うばかりです。

殺虫剤、、これは「体をむしばむ毒」ですが、「心をむしばむ毒」というものもあります。仏教では、それは3つあると教えています。

続きを読む

ダルマさんの亡くなった日

よく選挙報道などで目にすることの多い「ダルマさん」 お坊さんです。
今から1500年ほど前、南インドでお生まれになったと伝わっています。そのころの日本は古墳時代。ずいぶんと昔の話しに思えます。

「ダルマ」を漢字で書くと「達磨(達摩とも書きます)」 『西遊記』に登場する三蔵法師の100年ほど先輩。禅宗のお寺では、達磨さまはインドから中国へ、初めて禅をお伝えになった方としてとても大切にされ、きちんとおまつりされているのですよ。
今日、10月5日は、その達磨さまがお亡くなりになった日。達磨忌として、供養を申し上げる日であるのです。

お寺で見る達磨さまは坐禅をするお姿ですね。中国(南北朝時代-漢と隋のあいだ)に来られ、黄河中流にある少林寺というお寺で、9年間坐禅をして過ごされたそうです。ちなみに少林寺とは、あの拳法の少林寺です。
体と心と息とをととのえる坐禅は、この時代に中国に伝わり、今の禅宗につながっているのです。

おきあがり小坊師の「ダルマさん」も、じつは坐禅をされているわけですね。ころばしてもころばしても起き上がる姿が、縁起ものとして珍重されるのでしょう。

両祖忌に

今日は寒いくらい。もう秋やね・・。気のせいかトンボも、さらに赤く見えます。


さてさて。曹洞宗では9月29日を「両祖忌(りょうそき)」といい、正しい仏法を日本に伝えられ教団の基礎を築かれた、道元禅師と瑩山禅師に供養を申し上げる日となっています。

禅宗に「仏祖正伝(ぶっそしょうでん)」という言葉があります。お釈迦さまより、正しく代々伝わってきている・・という意味で、曹洞宗の基本をなす信仰ですね。
とはいっても、その時代時代の制約を免れ得ないのも、また事実かと思います。また、仏教には「これだけが正しい教え」という教条主義的なところがうすいです。仏教が大きく、ダイナミックに変化しながら、さまざまな人たちの心の支えとなってきたのは、そんな理由からもくるのでしょう。

宗教は人間の営み。いわば生きものであります。
ちょっと抽象的な物言いで恐縮ですが、生きているから正しく伝わり、生きているから変わり続けるわけですね。変わりながら正しく伝わる、、とは、なんとも矛盾ですが、これは仏教のミソだと思いますね。まあ人間はもとより矛盾を内に秘めている生きもの、、ってことで。

秋彼岸入り

台風13号は甚大な被害・・には幸い至らず過ぎるでしょうか。京都では台風一過の虹も出ました。(携帯でもけっこうキレイにうつりますね。かなり補正はしましたが・・)

さてさて、明日から彼岸の入りです。
彼岸とは向こう岸のこと。悩み多い、今生きているこの世を此岸(しがん)といい、苦しみのない世界を向こう岸に求めたものです。ですが、それは「境涯」を言うもので、いわゆる来世とか、死後の世界とかとは違うんですよね。

だから、彼岸だろうが此岸だろうが、人生で降りかかってくる火の粉はいっしょだったりします。

そこで不満に生きるも一生。逆に満ち足りて生きるも一生。どちらを選んで生きましょうか・・。

防災の日に

今日は防災の日ということで、各地で行われた訓練の模様がニュースで紹介されたりしていましたね。
9月1日がその日というのは、1923年(大正12年)のこの日に起きた関東大震災の教訓を忘れない、という意味と、この時期に多い台風への心構えの意味があるそうです。

阪神淡路もそうですが、関東大震災も、とてつもない衝撃をもたらしたことでしょうね。混乱ゆえか、たとえば在日朝鮮人の方々が流言によって、殺されたり、、という話しもよく聞くところです。
災害という恐怖を直視できず、その不安がスケープゴートを作ることによって、一気に悪い形で噴出したと言えるのでしょうか。

防災では、いざという時に備え避難場所の確認や非常持ち出し袋を用意する、といったようなことが説かれます。さらに心のことでも、たとえば「自分はいま不安である」といったことをきちんと認められるような意識を、ふだんから訓練する必要もあるのかもしれません。
仏教、もしくは宗教について、「欲望を制御する方法」であるとか、「心のダイエット」であるとかの言いかたを耳にすることがあります。
おなじような意味で、「心の防災」という言いかたもできるのではないかと思います。
天災は外からやってくるのに対し、心の災害は自分自身の中の話し。しかし、防ぐためには自分だけでなく、まわりのことをよく見て理解する必要があるのは同じでしょう。

まだまだ暑いですが


雲だけは秋っぽくなってきたんだけどなあ。

えー、お盆参りも佳境に入ってきました。
日本の盂蘭盆会は先祖祭りですが、同時に農耕儀礼としての面もあるようです。キュウリやなすといった夏野菜、小麦から作るそうめんなどをお供えするのが、かつての収穫物奉納のなごりなわけですね(参照文献-『日本の仏教を知る事典』)。

お盆をにあたり、それぞれのお宅で、さまざまな思いを馳せておられるでしょうか。
お仕事でそれどころじゃない方は、、、空でも見上げてみましょうか。
それでグチが出てきたら、とりあえずこぼしておきましょうか(笑)

「仏って何?」「麻の布だよ」

 
永平寺にて。左は仏殿(ぶつでん-お釈迦さまをおまつりする)を上から見下ろしたもの。雨の加減でけむってますね。
右は龍門(りゅうもん-門前の道から永平寺に入るいちばん初めの門)横の寺碑と聖宝閣(しょうぼうかく-宝物殿)です。

永平寺に私がいたのは、もう20年も前。そのときとまったく変わっていないところと、がらっと変わってしまったところと、いろいろです。
4つ前の記事で紹介した「麻三斤」の額は変わっていないもの(かかっている場所は変わりました)。これを見ると、永平寺にいた頃のことをよく思い出します。
この言葉は、西暦900年代、唐から宋への過渡期に活躍した洞山守初(とうざんしゅしょ)という禅僧が、あるとき「仏とは何でしょうか」と問われたときの答えです。三斤の麻とは、ちょうど1人分の衣を作る量にあたるそうです。
「仏とは何か」と聞かれて「1人分の衣を作る麻のことだよ」との答え。うーん、ぜんぜん訳のわからない、まあ、まさに禅問答っていうヤツですね。

じつは、これを聞いてあらためて自分自身思うのは、日常の中で「仏とは何か」などとは問わないなぁ、、ということです。仏教徒としては、うかうか生きてるなぁ、、という反省かしら。

禅問答を習うには、他の問答などを参考にしながら、この問いと答えがなされ合うに至った経緯を想像し、自分の日常の中で実感していかなければならないでしょう。ところが、出てくる問い自体にピンと来るところがないと、答えにたどり着くのははるか遠い先なのかもしれません。やはり、こういうのを字面だけで追っても、まったく意味をなさないのです。

こういうとき、問いの「仏」を言い換えてみても参考になるかな。「生きるとは何か」とか、「老いるとは何か」とか、究極には、「死ぬとは何か」とか、かな。

Index of all entries

Home > 仏教のこと Archive

Return to page top